

増穂中1年の山内敦貴君(13)=富士川町青柳町=が、日本将棋 連盟の奨励会に 入り、プロ棋士を目指している。 山内君は昨年12月に死去した将棋の永世棋聖で前日本将棋連盟会長の米長邦雄さん (現富士川町)出身=の生家の近くに住んでいて、故郷の大先輩に続こうと日々研さんに励んでいる。
小学3年のときに出場した全国大会では、低学年の部で3位に入賞。 このころ「プロ棋士になりたい」と思うようになった。 昨年4月には米長さん門下の長岡裕也五段に弟子入り。 長岡五段の時間があるときに上京し、八王子市内の道場でけいこをしてもらっている 。 志を大きく持って頑張って下さい。 資料;山梨日日新聞
1983年の新人国記で米長邦雄氏について、次のように記されていました。 棋王、将棋九段の米長邦雄(39)には、「さわやか流」のニックネームがついている。 「攻めの勝負師」といわれる棋風もだが、長身、秀でた額、明せきな語り口には 、
青嵐のような現代棋士の風韻(ふういん)がある。
潔(いさぎよ)い引き際で知られた元首相、故石橋湛山を生んだ南巨摩郡増穂町育ち 兄たち三人は東大で将棋部主将、週間朝日誌上での「三十年ぶりの兄弟対局」が 話題を呼んだ。
旧地主の生家は敗戦で没落して貧乏暮らし。母親がタバコ屋をして子育てをする。
「将棋だけは兄貴らに負けるもんか」と、負けん気の四男坊主だった米長は、中学 一年の時、単身上京して佐藤勇次八段の内弟子に。
中学生と小学生の内弟子二人を家に置く。都立鷲宮高で同級生だった明子夫人 と三人暮らし、内弟子二人の七人で朝鮮焼き肉の卓を囲み、米長はなにくれと 気をつかった。
心細やかな甲州男児だが、「負けた時のことも計算に入れておいて、一発勝負に でるんです」。米長の著『人間における勝負の研究』は十万部売れた。
「禅に通ずる自然の道理の機微」に勝負どころを見ようとする目が、盤上に人の世を 見る。
「華やかな面ばかり見て、子どもを棋士にという親がいるが、風雪に耐えなきゃダメ です」。
棋聖二回、棋王三回、王位一回のタイトルを握った。
王将、名人戦では破れている雪辱を果たせるか。「日本一を目指しますよ」
資料;朝日新聞

