

阪急グループの創始者小林一三(1873~1957)が生まれ故郷の韮崎を離れ、東京の地に足を踏み入れたのは明治21年1月、満15歳の春であった。「小林一三日記」には、同31年1月からの記録が収められているが、最近それより10年早い少年時代の日記が見つかった。それには甲州街道を4日がかりで歩いて行った上京の道程や、慶応義塾に入学した頃の生活の一端がつづられている。
東京行きにあたっては、両親のいない一三を幼いころから育てた祖母が、韮崎小学校の校長を務めた後に東京で法律の勉強をしていた高柳富作さんに頼み、連れて行ってもらうことになった。家を離れるにあたり、祖母は青い毛布をとり出し、寒さをしのぐようにと背中から首に巻き付けてくれた。一三はその毛布を長い間、大切にしたという。
この時の日記や、後に書いた自伝によると、一三は慶応での寮生活で、「寮窓の灯」という機関誌を主筆として編集したり、上野や浅草に遊んで大衆演劇に親しんだりした。「ブカブカドンドンに接すると、しばらく瞑目、にじみ出る涙をソッと押さえている快感を忘れることは出来ないのである。こうした体験や感動が、今年創設100周年を迎える宝塚歌劇団の原点になったと思われる。
また彼は文学的な環境の中で生まれ育った。祖父は俳句に親しみ、上京してしばらく下宿していた根岸の小林近一も俳人だった。「学生時代から俳句にふけって乱作を試み」、近くの子規庵の前を通るのが楽しみだったという。(続く)

