
戦前から戦後の一時期、1両編成の電車が現在のJR甲府駅前と山梨県富士川町役場前までの20.2キロをつないでいた。通称「ボロ電」。オレンジ色の外観がトレードマークで、最盛期には年間数百万人を運び、市民の生活を支えた。高度経済成長のさなかに役割を終えたが、定員超えの乗客を乗せて街を駆け抜ける姿を懐かしむ人は少なくない。30日、ボロ電は運行終了から55年を迎えた。
1962年6月30日、最終日の車内をとらえた貴重なモノクロ写真がある。乗り合わせた1人の学生が記念に収めたという。
乗客の視線は車窓に向けられている。中央に映っているのが、同県南アルプス市に住む川崎信幸さん(77)だ。「(乗客は)景色を目に焼き付けていたんですかね。どことなく、しんみりしていてね」。車掌として、ボロ電の最後を見届けた。
発車間際に敬礼を交わす駅員の姿に憧れ、58年、18歳で山梨交通に入社した。車掌勤務を命じられ、約4年、始点の甲府駅前から終点の甲斐青柳までの片道55分を1日3往復した。
ぴかぴかの車両がぼろぼろの駅舎に入る様が愛称の由来という。当時、県西部を走る電車は他になく、30分間隔で時間通りにやってくるボロ電は市民の足として重宝された。
朝と夕方は特に混雑した。定員は100人前後だったが、150人以上を乗せたこともあった。乗客の背中を押すのが日課で、ぎゅうぎゅう詰めにしてドアを閉め、自らは電車の天井から乗車していた。「車掌のスペースだけは、どんなに混んでいても空けてくれていた」
車窓から見える景色が好きだった。3駅目の相生町(甲府市)付近にあった直角カーブを甲府市に向かって抜けたところが、県都の繁華街だった。線路沿いに市場や店が建ち並び、秋の甲府えびす講祭り開催日や年の瀬は、一層華やいだ。このころ停留所には券売機はなかった。満員の車内をかき分け、運賃を回収しては首からぶら下げたカバンに入れ、切符を切った。
名前こそ知らないが、誰が何時に、どこで乗降するか、覚えていたという。なじみの顔が見えなければ、少しだけ発車を待った。息を切らしながら遅刻の弁明をする乗客を「次はないぞ」と、たしなめたこともある。
廃線後、路線は「廃軌道」と呼ばれる道路になった。川崎さんは電車に取って代わったバスの車掌として働き、定年で山梨交通を退社した。電車が消えて半世紀が過ぎたが「ボロ電で車掌をされていましたよね」と声を掛けられることもある。
川崎さんは今でも整備された廃軌道を度々、ドライブする。今諏訪から桃園(いずれも山梨県南アルプス市)にかけての景色が特に気に入っている。沿線には桃や梅が植えられており、春になるとピンクに染まる。
かつてボロ電は一帯が見ごろになると、速度を落として走っていた。町並みは変わっても、車窓で咲き誇っていた花の色は昔のままだ。付近を通りかかると、川崎さんは今でも決まって車のアクセルを緩める。往時のにぎわいを思い出し、そして帰路に就く。資料:毎日新聞【加古ななみ】

