
【維新を歩く】甲州・大善寺 古戦場や錦絵、砲弾で往事しのぶ
慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の影響もあって、明治維新が脚光を浴びている。近代日本への大転換をもたらした維新ゆかりの舞台や人物の足跡は、甲信越や静岡の各県内にも数多く残る。記者が現地を訪ね歩き、歴史の一端をひもといた。
慶応4(1868)年3月6日、新選組局長の近藤勇や会津藩士ら旧幕府軍による甲陽鎮(ちん)撫(ぶ)隊(たい)と、板垣退助率いる土佐・因幡藩兵の新政府軍が現在の甲州市勝沼町で激突した。
県内で起きた戊辰戦争としては最大の合戦「柏尾の戦い」だ。勝敗は1時間余で決し、旧幕府軍が江戸方面へ敗走した-。
柏尾の戦いの古戦場は、真言宗智山派「大善寺」の東側にある。中央自動車道勝沼インターチェンジ(IC)から甲州街道(国道20号)を東へ約2分走ると左側に大善寺が建つ。駐車場に車を止め、歩いて5分足らず。渓谷の橋を渡ると近藤勇の像がある。ここから山側に続く100メートル足らずの石畳の遊歩道の周辺が古戦場である。
◇
曽祖父が「勝沼柏尾坂戦争記」の著者という、大善寺総代の野田真佐夫さん(76)は、「遊歩道の二股の奥あたりが旧幕府軍の本陣があったところと言われています。近藤は本陣を置くのに、徳川家の祈願所だった大善寺を避け、その東側にしたようです」と説明した。
慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争で旧幕府軍は敗走。大善寺山門の案内板には、《甲陽鎮撫隊は、新政府軍の東進を阻止する目的で甲府城の接収を命じられた。新政府軍の3千の一隊はわずか1日の差で甲府城に入城。近藤は3月5日に勝沼に布陣した。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121人だったという》とある。
野田さんは、「勝敗は初めから決していました。新選組は近藤勇、土方歳三ら数人。旧幕府軍のほとんどが寄せ集めの兵で、劣勢とみて途中で逃げ出したと考えられます」と話す。
◇
幕末から明治に活躍した浮世絵師、月岡芳年(よしとし)の錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」(明治13年作)。大善寺東の本陣の近藤勇を描いたもので、現在、県立博物館(笛吹市御坂町成田)の常設展で展示されている(6月18日まで)。資料:産経新聞
慶応4(1868)年に勃発した戊辰戦争から150年の節目を迎えた今年は、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の影響もあって、明治維新が脚光を浴びている。近代日本への大転換をもたらした維新ゆかりの舞台や人物の足跡は、甲信越や静岡の各県内にも数多く残る。記者が現地を訪ね歩き、歴史の一端をひもといた。
慶応4(1868)年3月6日、新選組局長の近藤勇や会津藩士ら旧幕府軍による甲陽鎮(ちん)撫(ぶ)隊(たい)と、板垣退助率いる土佐・因幡藩兵の新政府軍が現在の甲州市勝沼町で激突した。
県内で起きた戊辰戦争としては最大の合戦「柏尾の戦い」だ。勝敗は1時間余で決し、旧幕府軍が江戸方面へ敗走した-。
柏尾の戦いの古戦場は、真言宗智山派「大善寺」の東側にある。中央自動車道勝沼インターチェンジ(IC)から甲州街道(国道20号)を東へ約2分走ると左側に大善寺が建つ。駐車場に車を止め、歩いて5分足らず。渓谷の橋を渡ると近藤勇の像がある。ここから山側に続く100メートル足らずの石畳の遊歩道の周辺が古戦場である。
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曽祖父が「勝沼柏尾坂戦争記」の著者という、大善寺総代の野田真佐夫さん(76)は、「遊歩道の二股の奥あたりが旧幕府軍の本陣があったところと言われています。近藤は本陣を置くのに、徳川家の祈願所だった大善寺を避け、その東側にしたようです」と説明した。
慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争で旧幕府軍は敗走。大善寺山門の案内板には、《甲陽鎮撫隊は、新政府軍の東進を阻止する目的で甲府城の接収を命じられた。新政府軍の3千の一隊はわずか1日の差で甲府城に入城。近藤は3月5日に勝沼に布陣した。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121人だったという》とある。
野田さんは、「勝敗は初めから決していました。新選組は近藤勇、土方歳三ら数人。旧幕府軍のほとんどが寄せ集めの兵で、劣勢とみて途中で逃げ出したと考えられます」と話す。
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幕末から明治に活躍した浮世絵師、月岡芳年(よしとし)の錦絵「勝沼駅近藤勇驍勇之図」(明治13年作)。大善寺東の本陣の近藤勇を描いたもので、現在、県立博物館(笛吹市御坂町成田)の常設展で展示されている(6月18日まで)。資料:産経新聞



