
深田久弥さんが茅ヶ岳で急逝されたとき、茅ヶ岳は地元甲府近くの山ということで案内かたがた同行したのが山村正光さんだった。深田さんが頂上のわずか下で倒れたときには救援を求めて山を駆け降り、お医者などを連れてまた登り返すなどの大活躍をした。
深田さんを看取ったときの山村さんは(山岳会会報『山』311号)の一節に掲載され「山村さんが同行されなかったならば、事後処理がかくも手際よく運ばれることは、到底望めなかった」と記載され、その名は「甲府に山村あり」と広く知られるようになったと云われた。
追記
山村正光さんは『車窓の山旅』(ベストセラー)の著者で昭和2年、甲府市生まれ。昭和15年、甲府中学入学、山岳部入部以来南アルプス全域に足跡を残す。
日本山岳会会員。昭和20年12月、汽車にタダで乗れるからというのが唯一の理由で国鉄に入社。
以来40年間、甲府車掌区に勤務。中央線の車掌として主に新宿-松本間を乗務しつづけ、昭和60年3月に退職。
折角汽車にタダで乗れるから入った国鉄も、北は北海道、西は広島までしか行ったことがなく、東北・上越の両新幹線も乗ったことなし。物見遊山の金も暇もなかった。
この40年間を支えてきたもの、それはただ、中央沿線の風光と車掌という仕事が好きだったから」である。
山村正光さんは茨城同窓会の山村正英(M26)さんのお兄さんである。

深田さんを看取ったときの山村さんは(山岳会会報『山』311号)の一節に掲載され「山村さんが同行されなかったならば、事後処理がかくも手際よく運ばれることは、到底望めなかった」と記載され、その名は「甲府に山村あり」と広く知られるようになったと云われた。
追記
山村正光さんは『車窓の山旅』(ベストセラー)の著者で昭和2年、甲府市生まれ。昭和15年、甲府中学入学、山岳部入部以来南アルプス全域に足跡を残す。
日本山岳会会員。昭和20年12月、汽車にタダで乗れるからというのが唯一の理由で国鉄に入社。
以来40年間、甲府車掌区に勤務。中央線の車掌として主に新宿-松本間を乗務しつづけ、昭和60年3月に退職。
折角汽車にタダで乗れるから入った国鉄も、北は北海道、西は広島までしか行ったことがなく、東北・上越の両新幹線も乗ったことなし。物見遊山の金も暇もなかった。
この40年間を支えてきたもの、それはただ、中央沿線の風光と車掌という仕事が好きだったから」である。
山村正光さんは茨城同窓会の山村正英(M26)さんのお兄さんである。


