
1873年1月3日、韮崎市の裕福な商家に一人の男の子が生まれた。後に阪急電鉄や宝塚歌劇団などを興し、財界史に名を刻んだ大実業家・小林一三だ。
線路を引くだけだった鉄道事業に、沿線開発という新たなビジネスモデルを持ち込んだ「私鉄経営の父」。
生誕150年を迎えた今、その足跡や偉業をたどる。韮崎市の七里岩を見下ろす高台に、墓地の一部を銅ぶきの塀で仕切った一際目立つ区画がある。
布を扱う商家だった小林家の墓だ。後に関西に移ったため、一三自身の墓ではないが、実母「幾久(きく)の」はここに眠る。
「幼い頃よく法事で墓を訪れた一三は、この高台の眺望が大好きだった。遠く東京や横浜を眺め、『全国で活躍する人物になりたい』との野望を抱いたのでは」。
一三は同市本町の小林家の分家に生まれ、すぐ母を病気で亡くし、婿養子の父は直後に家を出た。姉と二人残された一三は市内の本家で育てられ、15歳までを県内で過ごした後 上京して慶応義塾大学に進学。当初は小説家を夢見ていたが、やがて実業界に足を踏み入れていく。
今日の一句;一三は生まれた月日名を残し
韮崎市のシンボル「平和観音」富士山を眺めているようです。七里岩南端にあり高さ18.3m、昭和36年建立。

線路を引くだけだった鉄道事業に、沿線開発という新たなビジネスモデルを持ち込んだ「私鉄経営の父」。
生誕150年を迎えた今、その足跡や偉業をたどる。韮崎市の七里岩を見下ろす高台に、墓地の一部を銅ぶきの塀で仕切った一際目立つ区画がある。
布を扱う商家だった小林家の墓だ。後に関西に移ったため、一三自身の墓ではないが、実母「幾久(きく)の」はここに眠る。
「幼い頃よく法事で墓を訪れた一三は、この高台の眺望が大好きだった。遠く東京や横浜を眺め、『全国で活躍する人物になりたい』との野望を抱いたのでは」。
一三は同市本町の小林家の分家に生まれ、すぐ母を病気で亡くし、婿養子の父は直後に家を出た。姉と二人残された一三は市内の本家で育てられ、15歳までを県内で過ごした後 上京して慶応義塾大学に進学。当初は小説家を夢見ていたが、やがて実業界に足を踏み入れていく。
今日の一句;一三は生まれた月日名を残し
韮崎市のシンボル「平和観音」富士山を眺めているようです。七里岩南端にあり高さ18.3m、昭和36年建立。


