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躑躅ケ崎

信玄の寵愛、真田昌幸育んだ躑躅ケ崎(甲府)

武田信玄公をまつる武田神社は、信玄の父・信虎が1519年、川田館(甲府市川田町)から移した「躑躅ケ崎(つつじがざき)」の居館跡だ。武田氏が築き上げた行政と軍事の一大拠点は、真田氏にとっても“第二の故郷”といえる大切な場所である。「武田なくして真田なし。真田なくして武田なし」「武田氏研究会」の副会長で、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する平山優氏(山梨県立中央高教諭)は、こう言い切る。真田信繁(幸村)の祖父・幸綱が、1546年頃に上杉氏を見限って武田氏に帰属。真田氏は以降、重要な家臣として力を付けていった。当時の武田氏は、信玄が信虎を駿河に追放した直後。信濃に領地を急拡大し、最も勢いに乗っていた時期だ。幸綱は1551年、真田の本領を奪った村上義清の拠点で、信玄も落とせなかった砥石(といし)城(戸石城、長野県上田市)を陥落し、本領を取り戻した。2年後、7歳だった三男の昌幸を人質として信玄に差し向けた。昌幸は父親よりも信玄と過ごす時間が長く、「多感な時期に大変な寵愛(ちょうあい)を受けた」(平山氏)という。そんな光景を想像しつつ境内を歩けば、約450年前の戦国の世にタイムスリップした気分になれる。大正時代に建てられた神社だが、堀と杜に囲まれ、一角に能舞台もある。参道には「風林火山」の幟(のぼり)が立ち並んでいる。信虎はこの地をなぜ「躑躅ケ崎」と名付けたのか。神社の内藤寛禰宜(ねぎ)は「多くの学者に尋ねたが明確な回答はなかった。当時はツツジがたくさんあったのかもしれませんね」と笑う。「崎」は、館の東方に突出した山を指したとみられる。境内と堀に沿って、近年植えられたツツジがこの季節、美しく咲き誇っている。館の周辺には、「武田二十四将」といわれる重臣らが暮らした屋敷が点在し、神社前の看板で一覧できる。ちなみに、幸綱の屋敷跡は館からすぐ近くで、信玄がいかに重用していたかが想像できる。現在は民間アパートが建つ。幸綱の嫡男で二十四将に名を連ねる信綱の屋敷跡は、現在は雑貨店前だ。さらに、軍師・山本勘助が暮らしていた場所は、館から少し離れた児童公園。武田氏滅亡の修羅場で当主勝頼を裏切って織田氏に寝返った小山田信茂の屋敷跡は、駐在所前となっている。これらを結べば、眼下に甲府盆地、遠方には南アルプス連峰を望む気持ちのよい散歩コースとなる。
このほか、平山氏が「注目してほしい」と話すのが、南アルプス市荊沢(ばらざわ)の阿弥陀寺。信玄の生母、大井夫人の実家・武藤家の菩提(ぼだい)寺だが、昌幸は一時、ここに養子に出され、武藤姓を名乗っていたとされる。
昌幸はそれほどに尊重されて育った。昌幸は川中島合戦で初陣を飾り、武田氏の軍事会議にも加わる。昌幸ゆかりの地を巡ることで、信玄に仕え、多くを学び取った真田の礎を実感できる。武田神社は本殿、拝殿のほか、宝物殿や甲陽武能殿、名水・姫の井戸など見どころも多い。神社の北側約2キロの積翠寺は信玄誕生の地とされ、「信玄公産湯の井戸」跡などがある。甲府が一望できる積翠寺温泉の入浴も心地よい。資料;産経新聞
「風林火山」のぼり。甲府市平和通りで。
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