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甲州人国記(29)

甲州人国記  “文化づくりを担う” ⑭-1   昭和58年                               
奥秩父の山中からやがて甲府盆地を流れ、富士川に注ぐ笛吹川は、みやびた名にも似ず、しばしば大きな水害をもたらした。鋭い山ひだを縫って走る水が豪雨で鉄砲水となり、せせらぎを逆巻く濁流に変える。いまは石和町となった甲府盆地のド真ん中の富士見村は、明治四十年の笛吹川水害で壊滅的な打撃を受けた。畑と田のほとんどが砂にうまり、流出四十戸。同年のムラの収穫ゼロ。一人平均八十一円の借金を負い、不毛の土との格闘が続く。
富士見村村長をした農業稲村半四郎(76)は先年、聞き書きをもとに『富士見村70年の歴史』をまとめ、村人たちの苦闘史を掘り起こした。
稲村は、『ある農婦の一生』『農民のしあわせを求めて』『村に生きる先人の知恵』などの著作がある農村指導者である。笛吹川畔の簡素な住まいには、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の拓本が掛けられていた。その詩の道を稲村は歩いて来た。県立蚕業学校を首席で出た篤農青年は昭和初期、農民運動で投獄される。「お正月に刑務所ではタイの切り身や、リンゴが丸ごと出た。村では食べたことのないごちそうでした」。笛吹川の土手に立ち、毎夜、刑務所の方を見つめていたという病気の母は、出所前に死んだ。
「政党運動でなく、オレなりに村づくりを」という稲村の「オロオロ歩き」は、新生活モデル村、果樹のテニス村、として戦後花開く。「おんな衆に財布を持たせる運動」を二十年代にやったように、一歩、また一歩だった。
「本気に地域の歴史に学ぶことが文化づくりにつながる」と稲村は思う。人口二千百人の勝山村で、老人たちのザル学校や紬学校、臼ひき学校を開設して生きがいをよみがえらせている村長流石喜久巳(53)の試みも、地域文化を築く運動だ。広島生まれで日本被爆者団体協議会代表委員の山梨大教授伊東壮(53)は地域経済の研究者だが、「稲村さんたちの仕事を見ていると、原点―歴史と庶民の立場から経済社会をとらえ直す必要を痛感する」という。」        (敬称略)資料;朝日新聞

稲村   伊東

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