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甲州人国記(34)

甲州人国記  “信玄公あればこそ” ⑯-1   昭和58年 
                              
  詩人土橋治重(73)の第六詩集に、『サフランシスコ日本人町』がある。果樹農業を実地に体験しようとカリフォルニアに渡った父の後を、大正末、旧制日川中四年の土橋も追った。人種差別の白い目に刺され続けた十年間の下積み生活。くぐもった思いを四十年後につむいだ詩集の中に、シスコ郊外での<ピクニック始末>がある。
熱いおほうとうを吹き、酒をあおる甲州移民のピクニック集団に、「居なければならない」紙ヨロイの武田信玄が登場するのだ。「泥酔した信玄はハイウエーで車を次々にとめ、警察に留置され、ピクニックは以後、禁止となるーといった詩のあらすじだ。
  第七詩集が甲州方言を生かした『甲陽軍艦』。「甲州人でなきゃあ、信玄公は書けんさ」。そんな自負がある。
甲州・山の民の英雄武田信玄。十五世武田昌信(65)は、東京農大に勤める気さくな庶民だ。法務省暮らしが長く、甲府地方法務局の人権擁護課長もした。信玄の四男勝頼が天目山で自歳して戦国武将としての武田は滅びる。次男信親も自決するが、子信道は僧となって生き延びた。子信正と伊豆大島に流され、流転の生涯。
  系譜は絶えず、昭和二年、昌信の父信保が「信系の正系」として従三位を贈られた。「当時、子爵にという沙汰もあったが、父は謙信の上杉家が伯爵なのにランクが下なのは困る、断った」と信昌。川中島は生きていた。
  「ご先祖を辱なめるなということで、ずいぶん気をつかって生きてきましたよ」と十五世はいう。四十七年、仮装行列の信玄公になり、ヨロイ姿、白馬にまたがり甲府の街へ。「あんな窮屈なモノとは知らなかった」。柳生子爵家出身の綱(78)は、「信玄公の甲府へ住みたいね」。十五世は「いや、東京の方が気が楽ですよ」。
(敬称略)資料;朝日新聞                        
土橋      武田

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