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ちょっくら よっていけし 

甲州人国記(4)

甲州人国記  “庶民の心を生きる ”  ②-2   昭和58年 

石和町の印刷屋の息子で、甲州庶民の暮らしに溶け込んで育った深沢にとって、都会のインテリが驚くような「こわい小説」も、茶飲み話群像の深沢流再構築であったのだろう。
「ポイと家の塀を乗り越えて男に会いに行った家の女中」の生命力に共感し、中学生の深沢は「貧乏人の糸織り工女とだけ付き合っていたよ」。
『楢山節考』の舞台は、飯田竜太の住む境川村。
主人公の老母「おりん」の原型は、やさしく甘い実の母親だった。
「母はがんで死んだ。
おれもがんでころりと死にたい」と真顔。
「反えらい人」の哲学に生きる。『笛吹川』と『風流夢譚』をどう見るかは、その人の考え方を判定するリトマス試験紙だよなあ、と不適の笑いも浮かべた。
ギタリストだった深沢は、『楢山節考』を日劇ミュージックホールの楽屋で書いた。
国内外客の観光名所になっている舞台で、いまスターは、「お姉さん」と呼ばれる座頭の岬マコ(32)。
御坂町育ち、「分校の遠足はいつも三つ峠だけだった」。
三人姉弟の長女。父が愛人をつくって貧乏暮らし。
中学を出てすぐ踊り子に。演出家は岬を「最後の踊り子バカ」という。
「ヌードでなくて芸で見せる」岬の舞台には、哀切さに通ずる緊迫感があった。
「ハングリーでないとやって来れない世界でした」。
「岬は、若い子っを目立たせようと、自分は一歩退くようなところがある」の評も。家におさまった父は、時折、劇場にやって来て、「お前が一番きれいだったよ」。
激しさと内気が同居する目が、舞台ではいつも遠くを見ている。(敬称略)  
資料;朝日新聞 甲州人国記 “庶民の心を生きる ” ② 昭和58年より。 
岬マコ 御坂町育ち。
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